意図の純粋さを継続させ、自己批判を意識すること

意図の純粋さを継続させ、自己批判を意識すること

質問:意図を純粋に保つという点で考慮すべき点はなんでしょうか?

答え:全能なるアッラーのご満悦を獲得するためには、発言が心からのものであり、行いが誠実なものであることが非常に大切となります。なぜなら、行いを体に例えるなら、誠実さは魂であるからです。行いが片方の翼であるならば、誠実さはもう一方の翼です。体が魂なしに生きることはできず、片翼がもう片方なしに機能することはありえません。口から出た言葉、表に現れた行為が誠実であることはアッラーの目には非常に貴重なものと映るがゆえに、天使たちはその言葉を自らの口元に運び、それを日常的に唱える祈りの言葉の一部とし、霊的な存在はあたかもアッラーを賛美する言葉であるかのようにそれを唱え続けます。人の口から出る言葉がその人の心から出た真の声であれば、それは口から口へと伝えられながら「聖なる領域(ハズィーラ・アル=クドゥス)」にまで達するのです。さらに、その誠実な言葉が記憶に残されるのであれば、その善行に対するアッラーからの報奨はそれを発した人物のなした善行の記録簿へと流れ続けるので、発せられたどの言葉もその複製を媒介として永遠性を獲得することになるのです。

聖人ぶって見せびらかすことにより善行を損なうこと

しかしながら、もし人が声のトーンや顔の表情、その他の聖人ぶった態度によって自らの善行に強調を加えるのであれば、勝利の地における敗者となり、溢れんばかりの報奨を奪われる結果となります。

例えば、人を無限の空でかけ巡らせるような崇高な崇拝行為である、日々の礼拝があります。ルクー(立礼)やサジダ(跪坐)の状態でアッラーの偉大さを讃え、ルクーから体を起こす際にかれを讃美するのは非常に心地の良いものであり、つまり礼拝は非常に素晴らしい善行であると言えます。しかしながらここで、「ルクーやサジダの際にアッラーを讃美する言葉を他の人にも聞かせよう」というような考えが礼拝する人の心をよぎったとしたら、その賛美は台無しとなってしまうのです。言葉は生命を失い、崇拝行為の美しい行為は魂を欠いた動き、意味を持たない肩書きと変わってしまうのです。わずか1%であっても他の人に対する誇示がその人の考えに含まれているなら、こうした言葉の魂は追い出され、飛び去ってしまうことでしょう。 

アザーンやイカーマ(礼拝への一番目と二番目の呼びかけ)、礼拝中にクルアーンの一部を朗唱すること、礼拝後に行われる讃美やドゥアーといったあらゆる行いは、この同じ枠組みの中で判断することができます。しかしながら、礼拝中に読まれるクルアーンの節の旋律に、自らをその流れに自然と身を委ねることと、朗唱力を見せびらかして他人に印象づけようとすることは、全く異なるということを心すべきです。エゴによって自らの行いを影で覆う人は、影で覆えば覆うほど、アッラーに属すべきものの中からそれだけの分を自分自身に充てがうことになっている、ということを知るべきです。これは鳥の両翼をダメにして善行が遥か彼方の領域に飛んでいこうとするのを阻んでいることになぞらえることができるでしょう。

よって、人は自らが為すすべての行いについて、イフラース(誠意)があるかどうかを考えるべきです。否定的な例とならないようにするためには、外から見たときにシンプルであるべきです。すなわち、気取らず見かけは質素な小屋のようであるべきであり、しかしながら内なる世界に関しては豪華な宮殿よりも輝かしく、高貴であるべきなのです。

盾としての自己批判

信者は自分自身を省みるとき、「なんということだ、心の中の世界を見てみると、私はあたも人間のレベルから動物に落ちたかのようだ。だというのにアッラーはそのお恵みによって私を人間の形で生かせてくださっている」という尺度で自らを低く見る必要があります。アッラーのためになされる奉仕への寄与についてはこう述べるべきです。「全能のアッラーから授かったこの機会を最大限に活かし、ほかの人々に信仰の真実について伝えるべく奮闘すべきであった。なのに私はかれのためにこれらを有効に行うことができなかった。無駄にしてしまった。私はイスラームとクルアーンに忠実でない見下げた人間だ。自分が石に変えられなくて驚くぐらいだ」と。そして自我と真正面から闘い、常にその喉を締め上げなければならないのです。自らを低くみなすことによって、精神的な発展への願いが引き起こされます。完成の域を目指す人々はより高いレベルを目指すのなら、実際のレベルより自分自身を低くみなすべきなのです。また、無限のお方に向かう旅は果てしないものです。全能のアッラーは我々のために完全さと完成の地平線を見せてくださいました。「今日われはあなたがたのために、(あらゆる規則、戒律、普遍性をもって)あなたがたの宗教を完成し、またあなたがたに対するわれの恩恵を全うし」(クルアーン食卓章5:3)。我々は無限に向かう道において飽くことを知らない旅人であるべきです。たとえ全能のアッラーが奇跡的な方法ではっきりと、愛の注がれたボウルを授けてくださったとしても、もっと、もっと、と言いながらさらに求めるように・・。そうした完全さと完成に達するのは継続的な自己批判を行うかどうかにかかっています。そうでなければ、自らをすでに完成された人間だと見なし、これ以上の進歩は不可能であるかのように行動している人は、その場にとどまることを強いられるでしょう。そうした人々が完成の域に達し、それを味わうことは不可能なのです。

付け加えていうなら、ほかにも自分自身に向き合わないことのマイナス面があります。自己批判を行わない人は無意識のうちに、他人の粗探しにかまけて自らを忙しくし始めてしまうのです。さらにはある種の集団に加わっていることのプライドが個人の傲慢さに加わるなら、その人が敗者となる危険性はさらに高まります。ベディウッザマン師が強調しているように、集団の傲慢さは個人の傲慢さを増長させます。それゆえ、集団の傲慢さはさらなる危険を孕んだ、致命的かつ破壊的な災難だと言えるでしょう。こうした危険性から救われる方法は、常に自らと向き合い、自己批判することです。

例えば、全能のアッラーは一人の人に世界各地で非常に重要な奉仕を実践する機会を授けるかもしれません。そしてその人はある場所であらゆる人々の心を掴み、その地における知識面、精神面で大躍進を成し遂げるかもしれません。しかしこうした業績を目の前にして我々は、「私が責任者だったため、その他多くの物事が達成できなかった。心と頭脳の両面で啓発された人物がこの場にいれば、奉仕がさらに発展したことは間違いない。私のせいで奉仕の妨げとなっていなければ良いのだが」という考えを常に持つべきです。これこそが、アッラーに向かう旅人が携えるべき自己批判の真の精神なのです。

実際、称賛やお世辞にさらされてつまずいたり転倒することを回避するには自己批判を実践し続けることが頼りとなります。つまり、人は一日に何度も自分自身を批判し、自らを自己監視の下に置き、それに応じて全能のアッラーとの関係性を調整すべきなのです。このようにして、たとえ他の人々がその人の美徳を褒めそやしたとしても、「私は自分自身を知っている。これは悪魔の妨害かもしれない」と言って、プライドや傲慢さに陥ることから自らを救うことができるでしょう。

アッラーが我々の心を自己批判への目覚めで満たしてくださいますように。恩恵として授けられた任務をきちんと果たせるようにしてください。アーミーン!

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