赦しを請うこと―1

質問: 伝染病のように罪が蔓延している現代において、イスティグファール(赦しを請うこと)は信者に何を約束してくれますか?アッラーの赦しを請うのに適している特定の時間がありますか?

答え: 預言者様が仰っているように、どの子どももイスラームのフィトラ(本然の姿)を持って生まれてきます[1]。人がこの世で負っている責任のうちの重要な概念がこの本来の性質を死の瞬間まで保つことです。人を永遠の至福に導く善行のすべてはこの本来の性質を守る方向に働くのに対し、破滅につながりかねない禁じられた行為のすべてはそのフィトラを腐敗させる原因となります。信者は破滅的な罪に対する強固な障壁を築く一方で、絶えず良い行いを追い求めるべきです。本来の性質が汚れないよう、変形するに任されないよう、保持する道を探るべきです。

犯される罪の一つひとつは、人間の本来の性質という観点からすると一つの歪みです。こうした歪みに見舞われたあと本来の姿に戻るには、ただイスティグファール、アッラーの赦しを請うことによってのみ可能となります。時に罪によって汚染された心はその機能を果たせないところまできてしまうことがあります[2]。それに罪はどれも、人をアッラーから遠ざけ、不信仰に近づけます。こうした人を不信仰に近づける罪から救われ、心にできた染みを消すには、アッラーの赦しを請い罪からの加護を求めることでしかできません[3]

予防医学

実に信者は最初のうちに、極小の罪にさえ歩を進めないよう確固たる心構えであるべきです。罪に陥らないよう清らかで純粋な環境を整える努力をし、蛇やサソリから逃れるように自身を罪に誘い込むような危険な場所から逃れなければなりません。こうした決意、警戒といったものは、罪を犯すことによって地獄へと転落していく感覚を良心の奥底から感じることのできる、信仰者の心こそが獲得できるものです。罪に対し嫌悪感を抱かないのであればその人の心はすでに生気を失っていると判断できます。過ちや罪に対して動揺したり反応を示さない心、過ちを犯した後悔で夜も眠れないといった状態にならない心は死体のようなものです。したがって信仰を持つ心は罪に対して確実に反応を示すものです。そして示されるべき反応のうち最初にくるのが、イスティグファール、すなわちアッラーの赦しを請い、過ちからの加護を願うことなのです。

信者が「アスタグフィルッラー(アッラーの赦しを希います)」と言うとき、実際はアラビア語の現在形(ムダーリゥ)に備わる広大な意味合いを持たせながら、「アッラーよ、私はあなたの赦しを今も、これからも、そしていつでも請うています」と言っていることになります。このように悔いる者は過去に犯してしまった罪の赦しを請いながら未来をもすべて包含する請願として表現しているのです。赦される方であられるアッラーは、僕が一度行ったタウバ(悔悟)とイスティグファールを受け入れ、その者のすべての罪を赦されることもあり得ます。しかし我々がなすべきは、我々が手、足、目そして耳でなした過ちに対してただ一度の赦しを請うことで良しとせず、「アッラーよ、罪の赦しを願います。寿命の続く限り願い続けます。一度赦しを請うだけでは足りません。たった今赦しを請うているように、私の犯した罪のために一生後悔し続け、謝り続け、赦しを願い続けます。赦してください、主よ・・」と言いながら犯したたった一つの罪でさえも一生自責の念を持ち続けることです。そうです、信者は自らの犯した罪に対して、正しい導きを得たにも関わらず罪の道に踏み込んでしまったことがいかに恥であるかを考え、楽園のような恵み深い約束がありながら罪に耽ってそれを見逃したことがどんなに傲慢だったかを知り、心の中で恥を感じ続け、そうして絶えずイスティグファールに向き合うべきです。それがたった一つの罪であっても1万回赦しを請うほどであるべきです。さらにはそれさえも十分とは思わず、「アルフ・アルフィ(100万回の)・アスタグフィルッラー」と唱え、100万回のイスティグファールを感じるよう努めるべきです。

悪に傾きがちな気持ちの根を絶つ万能薬

イスティグファールは傷ついた人間の本性を再生するのと同様、悪へと傾きがちな性向の根も切り取ってくれます。常にイスティグファールを行い自らを清める人は、罪へと向かわせる原因をも同時に取り除きます。こういう人の心ではウイルス増殖の元となるウイルスは全く残りません。加えてアッラーは、我々には知りえないやり方で、イスティグファールを行い続ける人の悪への傾斜を抑えてくださいます。クルアーンの中でアッラーは、悔悟して善行に励む者について「アッラーはこれらの者の、いろいろな非行を変えて善行にされる」(識別章25:70)との吉報を伝えてくださっています。かれは行いの帳簿にある罪を消され、無限の慈悲によってその隙間を美しいもので埋めてくださるのです。これはかれの慈悲が怒りに勝っている事実のまた別の現われです[4]

ベディウッザマン師はこの節を別のアプローチで解釈し、人に備わる悪の素質が悔悟と赦しを請うことによって善の素質へと転換することだと述べています。これに従えば、人が悔悟してアッラーに向き合うことによってかれへの忠誠を示せば、アッラーは「あなたはわたしのところに戻ってきた、であればあなたの悪への素質を善への素質に変えよう」というふうにやり取りしてくださっているのかもしれません。

イスティグファールのための大切な時間

義務(ファルド)の礼拝を終えた直後にアッラーに赦しを3回請うことは預言者様(彼に祝福と平安あれ)のスンナです[5]。人をアッラーの最も近いところに上昇させる平伏があり、アッラーが最も好まれるこの崇拝行為を捧げたあとにかれの赦しを請うことの英知は、次の2点で説明できるでしょう。まず最初に、人々が礼拝に全集中を傾けることができないこと、アッラーが見ておられる前に立っているのだという実感を持てず、自分の世界をうろついていること、自分の関心事を追いかけていることがあります。このような態度は、特に信者のミーラージュ(アッラーの御許への上昇)である礼拝の最中にあってアッラーへの無礼であると言えます。預言者様がミーラージュで感じられた意味を感じることを追求すべき人間が個人的な考えに浸りきっていたとしたら、こうしたのんきな態度に対してイスティグファールを行う必要があります。

二番目に、礼拝はアッラーへの願いがさらに受け入れられやすい(崇高な精神的)状態を意味するものであることから、礼拝直後になされるドゥアーにはまた異なる価値があります。それゆえ預言者様はこの機会を捉え3回赦しを請うことを勧められました。この点で定時の5回の礼拝は、アッラーの赦しと罪からの加護を求める上で重要な要因、機会であるといえます。

クルアーンで「彼らは夜間でも少しだけ眠り、また黎明には、御赦しを祈っていた」(撒き散らすもの章51:17-18)と述べられていますが、イスティグファールのために非常に重要な時間のひとこまがあることに注意を引き付けています。この節では、夜の最後のほうの時間に起きてイスティグファールを行い、アッラーに心を開いて懇願し、礼拝用の絨毯に額づいて頭を上げるのを忘れてしまったような信者を褒めています。そしてその称賛を天国の住民や霊的存在、そしてすべての信者に知らせています。と同時にこの叙述で信者に対し一つの目標を示すことにもなっています。信者に備わるある種の称賛すべき資質は、クルアーンや預言者の言葉で表されていますが、この望ましい資質をまだ備えていない者に対してもそれを身につけるよう奨励されているのです。そうであれば人々が寝込んでいる夜半に起きだし、少なくとも2ラカートのタハッジュドの礼拝をしてアッラーの僕であることを示し、誰にも知られることのないその時間に起きてイスティグファールを行うことは非常に重要なことです。

また、人の心が和らぎ、罪の重さを良心で感じて感情が溢れ出るような時も、イスティグファールのためにうまく生かすべきです。なぜならこの瞬間にはアッラーへの近しさのそよ風が吹いているからです。

さらには、人が何か間違いや罪を犯した直後に悔悟してアッラーに向き直ることも、「過ちや罪に一歩踏み込んだことに気づいた最初の瞬間」のチャンスを捉えたことになります。そうした瞬間も、イスティグファールが最も受け入れられやすい時であるからです。罪は渦巻に似て、中毒のように人をその中に巻き込んでしまいます。罪の中にどっぷり漬かりきったあとにそれを取り除くのは困難です。こうした状況に陥ってしまった人が意志の力を正当に行使して悪の泥沼から抜け出せるよう決心し努力しないのであれば、こうした悪を禁じるアッラーの命令が存在しないことを願うようになり、完全に信仰を失うことによって最終的に精神的な破滅へとつながる可能性もあります。破滅する人はたいていこのパターンを踏襲しています。だからこそ早いうちに、「これは泥沼に続く道だ。あと数歩進めば私も元に引き返せないところまで滑り落ちてしまうかもしれない」といって、機を失うことなく過ちや罪から後ずさりすることが非常に重要なのです。

最後にもう一点指摘しておきたいと思います。上で述べたようなタイミングがイスティグファールのための重要なチャンスであることは確かですが、アッラーの赦しを請い、罪からの加護を求めるために特別な時間を振り当てる必要はありません。実にイスティグファールをこうした決まった時間だけに限定することは間違っています。人は朝夕、昼夜、あらゆる時間にイスティグファールすることができますし、またすべきであり、人生の一瞬一瞬をそのチャンスとして生かすべきです。そうです、機会を見つけては隅に退き、跪いて座りもしくは額づいて、悔悟し赦しを請いながらアッラーに向かい合うことができます。歩いてどこかに向かう途中、もしくは車を運転するとき、または人を待っている時など、利用できる瞬間をこのように使うべきです。死はいつ訪れるとも知れません。唇がイスティグファールを唱えている状態で死を迎えることは清らかな状態でかなたの領域に歩みを進める上で大変重要な手段となるのです。

[1] サヒーフ・ブハーリー、ジャナーイズ、80、9
[2] これは胸にあって血液を人間の体中に送り出す役割を果たしている肉体的な心臓に関してではなく、精神的な心について述べています。
[3] スナン、ティルミズィー、タフスィール・アル=スーラ、(83)1
[4] サヒーフ・ブハーリー、タウヒード、22
[5] サヒーフ・ムスリム、マサージド、135

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