平安を貴方に、おお我が預言者
平安を貴方に、おお我が預言者(彼の上に平安あれ ) よ
長の中の長、預言者(彼の上に平安あれ ) に平安と祝福を・・・
私達がいつでも預言者(彼の上に平安あれ ) の平安と祝福を願いアッラーに祈ることは、私達の彼への忠誠心が必要としているのである。なぜなら、サラワート ( 預言者(彼の上に平安あれ ) の平安と祝福を神に祈ること)ともに私達が彼をいつも想うことは、彼の預言者としての任務を称える一方、彼のもたらした永遠の幸せに対して感謝の気持ちを表すことでもある。さらにまた下された命令に対して私達の服従心と忠誠心をあらわすことをも意味する。さよう、長の中の長に平安と祝福を願いアッラーに祈ることは、私達の誓った約束を蘇生させ、私達が共同体の一人に含まれることを望むとともに、彼自身のためにも祈ることになる。「あなたを想い、あなたのことを考えております。至高なるアッラーが貴方の価値を高め給うよう祈り冀います。」「おお冀います、アッラーの使徒よ、私達をも光り輝く輪の中に入らせ給え、おお、アッラーの使徒よ、」と何度も祈りながら、彼の広い広い慈しみの心と、とりなすやさしさに身を任すのである。つまり、彼に祝福と平安を祈ることを、預言者(彼の上に平安あれ ) ご自身よりも私達がより必要としているということである。私達が彼への祝福と平安を祈りながら存在すると言う事は彼の偉大さを承認し、私達が卑小であること、いや無に等しい人間であることを宣言する事でもある。私達の無力さと弱さゆえに感じる非常に過酷なかの日 ( 審判の日)への不安の避難時避難場所である預言者 ( 彼の上に平安あれ ) に、その不安を預けることでもある。おおいなる願いと望みとともに・・・
ご存知のように、サラートには祝福、祈り、赦しを乞うこと、恵みのような意味がある。サラートの複数形がサラワートである。高貴なるクルアーンではこのように記されている。「本当にアッラーと天使たちは、聖預言者を祝福する。信仰する者たちよ、あなたがたはかれを祝福し、(最大の)敬意を払って挨拶しなさい。( 33 : 56 )」
この節によれば、預言者(彼の上に平安あれ ) へ祝福と平安を望みながら最大の敬意を払う事はムスリム一人一人に要求された義務である。全てのムスリムが少なくとも、「アッラーフンマ サッリ アラー ムハンマド(アッラーよ、ムハンマドに祝福あれ)」と唱えながらサラワートをすることは義務である。
高貴なる預言者(彼の上に平安あれ ) は「私の名を聞いた時、私に祝福を願うドゥアーをしない者の鼻がおられ、卑下されるように。」とおっしゃった。と同時に、預言者(彼の上に平安あれ ) の名を聞いた時又は思い起こした時、祝福を祈り、又は祈らないと言う事について、「預言者(彼の上に平安あれ ) の名をどれほど多く想うても、一度申せば十分である」とある学者達は仰っているが、ほとんどの学者達は、「預言者 ( 彼の上に平安あれの名思い起こされたごとに祝福を願うのが善い」と仰る。ある者は生涯に一度は預言者 ( 彼の上に平安あれ ) に平安と祝福を願うのは義務であるとのべているが、イマームシャーフィーのような方々は、気高き預言者ムハンマドの御名を思い起こした時、直ちに平安と祝福を願う事は必須であると考える。同様に、ハディースの知識に基づく者たちは、預言者(彼の上に平安あれ ) の伝承を伝える時、彼の御名がどれほ多く想われても、想われるごとに(サッラッラーフ アライヒ ワサッラム)と記し、敬意と忠誠を表わしている。
さらにまたある地域では、アザーンで、預言者 ( 彼の上に平安あれ ) 誉れ高き御名を思い起こし、「アシュハド ゥ アンナ ムハンマダン ラスッラー」といわれるために、アザーンの後にもサワラートをするようである。エルズルム ( トルコ東部の都市)もこれらの地域の 1 つである。そこでは、アザーンが呼びかけると、アザーンの次に
「アッサラートゥ ワッサラーム アライカ ヤーラスーラッラー アッサラートゥ ワッサラーム アライカ ヤーハビバッラー アッサラートゥ ワッサラーム アライカ ハタマンナビーユーン」と言う形で、祝福を呼びかける。本来は、アザーンの中にこのようなサラワートはないが、忠誠心の不足を補う意味を表わすために付けくわえている。
さよう、「彼の平安と祝福を願うこと」について、彼への忠誠心の不足を補うことの 1 つと捉えるべきである。私達は預言者 ( 彼の上に平安あれ)に対して借りがある。アッラーは私達の幾人かには重く感じるだろうその借り(忠誠心の不足)を、いつでも払っていると意識するように私達に義務づけなかったようだ。私達の人生の毎秒ごとには彼を想う事、彼の平安と祝福をねがうことを提案なさらなかったようだ。しかしながら、私達は彼の齎したイスラームの教えの則に示された事に基づき、彼に対して不足を支払うために、継続的に中断せずに言葉に表わす(サラワートをいう)。
太陽が 5 回ミナーレから昇るように、私達の心をも高めるアザーンを思い起こして御覧なさい。礼拝に向かうあゆみの中で、
天は光で満ち溢れる、限りなきミナーレから
輝き広がると、ムハンマドの大いなる魂は、
魂達は一斉に知る、アッラーは偉大なりを
ムハンマドの言葉が天高く響きわたると・・・(ヤフヤー ケマル)
と言う言葉は真実を語っている。まずアザーンと共に私達の忠誠を宣言している。崇拝されるべきお方と共に預言者(彼の上に平安あれ ) の気高き御名をも私達は想う。「ラー イラーハ イッラッラー」を「ムハンマドゥン ラスールッルラー」から別の分けられないことを、証言において 2 つが共に唱えられる事で、ことが遂げられる事を私達は示すのである。師の手紙でも明かなように、シャハーダ(証言の言葉)の 2 つの言葉はお互いに離れず分けられない事を、それらの 1 つがたの一方を含みあっていることを、お互いがそれ無しでは成り立たない事を説明している。さよう、預言者 ( 彼に祝福と平安あれ)は最後の預言者であられる。全ての預言者たちの友でもある。彼は、アッラーに到達できる道々の中でも最たる道である。その偉大な道の他に、真に救いの道はない。
すべてのアッラーに到達するために歩む人々や真理を証明により知るイマームたちをサーディー シラーズィーのように語っておられる。「おお、サーディーよ、 ムハンマド()を模範としないかぎりは、平安と幸福の道を見出す事は不可能である。」
私の目は貴方と共に輝く
真の主の御名と共に預言者(彼の上に平安あれ ) の御名も唱えることについてアンダルシア出身の学者カーディーイヤズは「誉れ高きいやし」の中でこの様にのべている。「聖アーダム (a.s) はご自身に禁止された果物を召しあがったあと、真の主アッラーに預言者ムハンマド(彼の上に平安あれ ) をとりなし者として嘆願なされた。「ムハンマドへの敬意に免じて、私をお許しください。」と。至高なるアッラーの「貴方はムハンマドをどうして知っているのか?」という問いに対して、「私は天国の扉に『ラー イラーハ イッラッラー ムハンマドゥン ラスールッラー』と記されているのを見ました。名が貴方の誉れ高き御名のとなりに命名された者は、貴方のお傍で最も価値あるものであるに違いありません。」とお答えになったそうである。
ある本に記されているところによると、アザーンを聴いた者は、まず第一に「アシュハドゥ アンナ ムハンマダン ラスールッラー」とよびかけられた後に「サッラッラーフ アライカ ヤー ラスールッラー ( アッラーが貴方に祝福を齎しますように、アッラーの使徒よ、)」と言い、 2 度目に「アシュハドゥ アンナ ムハンマダン ラスールッラー 」と呼ばれた時は「カッラト アユニー ビカ ヤーラスールッラー ( 私の目は貴方と共に輝く、(私の目を貴方と共に輝かせ給え、)おおアッラーの使徒よ、)」という。これらを言う時も、親指の端に口付けしながら、両目をなぜるので、これは喜ばれることであると説明している。私の目は貴方と共に輝いた・・・何と美しい言葉だろう、トルコ語でも「目の輝き」と言うように使う。お子さんが生まれた方に、息子さんが兵役から戻られた方に、お子さんが結婚された方に、、いつも「貴方の瞳が輝くように」という。そう、このように、「カッラト アユニー ビカ ヤー ラスッラッルラーという言葉にもおなじ意味がある。つまり彼の偉大な御名が公言された時はいつでも、通常は、新たに生まれたように、新たに愛する者に出会う時のように、この上ない、初夜の時の証言者のように、「おお、ラスールッラーよ、貴方と共に私の目は輝きました。」と私達は言う。「貴方がいらっしゃって、全てを暗黒から救い出されました。全ての存在が光に満ち溢れております。貴方がいらっしゃって、私達の中を輝かせました。世界を輝かせ、来世への道を輝かせました。貴方がいらっしゃって私達の歩む道を照らしました。私達の進む一歩一歩を、私達の踏む大地を輝かせました。」
アザーンが終わると、今度はアザーンのドゥアーとともに、私達の借りを返す事に努めよう。預言者(彼の上に平安あれ ) に色々なサラワートを送り、彼がマカム・マフムードに到達できるよう私達は祈る。その後、イカーマを唱える。そこでも、もう一度いと高きムハンマドの御名を私達は唱念する。
それならば、意識的に又無意識的に私達の気持ちに合わせて、この忠誠(心の不足という)借りと感謝の気持ちをアザーンと共に、イカーマと共に、礼拝と共に、タシャッフドのタヒーヤートと共に表わそう。砂糖やあまい飲み物を味覚で味味わうに、又その美味をしっかりと感じるように、この言葉の全てを私達の脳と魂の感覚システムで味わう事ができたら、どんなにすばらしいことか・・・各々のことばの味を完璧に知り感じる事ができたら、アッラーを全身全霊で知り、魂の悦びを感じる事ができたらよいのに、それらをどのように味わうか、そのためにどのシステムが活動し始めるのだろうか?そのシステムを活動させながら、アッラーに対する私達の借り(忠誠心の不足)をしっかりと知り、感じる事ができたらよいのだが・・・しかしながら、その様にできなくても、私達の日常生活を、いや礼拝についてのみ考えても、それだけでも、万有の中で最も誉れ高きお方(預言者(彼の上に平安あれ))に対して、私達の忠誠を尽くせることを見出せるであろう。
と同時に、その全てが預言者(彼の上に平安あれ)の形見(想いで)である、私達にとって。アザーンがイカーマの思い出させるように、礼拝でスブハーナカを唱えると、そこでも彼を私達は思い出す。ファーティハをゆっくりゆっくり唱える時、再び彼と共に私達は満たされる、いや満たされるに違いない。それらも 1 つづつが想い出であり・・・そしてその後タヒーヤートの時に私達は座わる。2ラクアで預言者(彼の上に平安あれ)に私達のタヒーヤートで、タヒーヤートとムバーラーカート(アッラーを称えさせる素晴らしい出来事やもの。アッラーの素晴らしさを報せるアッラーからの多種のめぐみ)を願った後、預言者(彼の上に平安あれ)にも平安と祝福の祈りを贈る。「アッ = タヒーヤートリッ=ラーヒ ワッ=サラワート ワッ=タイイバード アッ=サラーム アライカ アイユハン=ナビーユ ワラフマトッ=ラーヒ ワバラカートフ(尊崇、礼讃、神聖のきわみのアッラーをたたえ奉る。おおみ使いよ、なんじに平安あれ、アッラーの恩恵と祝福あれ、私たちすべてのもの、アッラーの忠誠なしもべの上に平安あれ)」と私達はとなえる。
このタヒーヤートとともに、ミーラージュの夜、その夜の聖なる旅人、預言者ムハンマド(彼の上に平安あれ)が真の主から平安を得たことを思い起こす。そしてその素晴らしいあいさつの交し合いに「平安あれ、おや、ラスールッラー」と申し上げながら、私達もそれに加わる事になる。そこでは、ある区別にも気がつく。祝福と平安の間を分けている。「アッ = タヒーヤートリッ=ラーヒ ワッ=サラワー」ととなえながら、アッラーに称讃を送り、預言者(彼の上に平安あれ)にも平安を送る。なぜならサラートはアッラーにはめぐみ、天使達には赦しお乞い、信仰者達にはドゥアーという意味になる。「天使達はサラートしている」と言うとき、私達はアッラーへのお許しを乞う事と言う意味で理解する。「アッラーがサラートなさる」と言うときは恵みという意味ととる。私達がサラートをすると言う時は、私達の行なったドゥアーを意味する。ドゥアーとは、預言者(彼の上に平安あれ)のためになされても、預言者(彼の上に平安あれ)に祈らない、アッラーに祈るのである。このように、礼拝中に、アッラーにサラートすると共に「預言者(彼の上に平安あれ)にもサラートするように」とは言わない。彼に私達は平安を贈っている。しかし私達自身で平安と祝福を願う時、真の主が「「信仰する者たちよ、あなたがたはかれを祝福し、(最大の)敬意を払って挨拶しなさい。( 33 : 56 )」」と私達に仰っているので、私達もその命令にしたがっている。
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