チームワークの精神
チームを組んで活動する時、通常、考えられるような正当な分け前を手に入れるべきではない場合もある。偉大な先人が「他の人に花を持たせる事を、喜ぶような人となるように。」と言う言葉の意味は、たとえば、あなた方がすればよりよく成功をおさめるだろうことでも、他の人々にも、その仕事を選べるよう道を開いておくべきであるということだ。
他の人々が最後の成功への一歩を踏むことができるように。これはチームワークの精神の重要な基本要素の1つであるだけでなく専心さ ( イフラース ) と誠実さを守るための大切な薬でもある。人間は生まれながらに成功の栄誉を自分のものにしたいという欲求を持っている。そのため、この事はそれほど簡単にたやすく日常生活で実行できる規範ではない。
私はサッカーの技術的な事についてあまりよく知らないが、そのゲームでは、多数の選手が1つのチームを組み、プレイをする。最後に1人の選手が足でボールをゴールする。みんながそのゴ-ルした選手に注目し、彼をヒーローにする。彼が勝利の栄誉を手にし、新聞の見出しの記事は彼の名で賑わう。しかしながら、その栄誉は、実はチームワークの賜物なのだ。他の選手達がゴールできるような状況を整えなかったならば、その者はゴールすることができただろうか?
物事を私はこのように捉えるべきだと思う。起こるべき分裂や不一致を解決する上で、この精神や規範は大きな役割を果たす。「みんな天国へ入った方がいいけれど、その鍵は私が持ってなくてはね。」とか「ゴールにボールをいれるのは、私でなくてはダメ。」などといういうような喩えで明らかにされるこの考え方は、我々にとって、大変危険である。そのとらわれを取り去る方が良い。天国への鍵は他の者が持てばよろしいし、ゴールへのボールは他の選手が蹴ればよい。精神を混乱させるこの種の病から遠ざかろう。寛容と尊厳を持ち合わせているとお考えなら、さあ、これらをイスラーム世界の低迷さを救う事に使おう。なぜなら、我々に共感できる名誉と尊厳は足元にあるのだから、「この低迷さ ( 後退 ) に、これ以上耐えられない」と言う必要はないのだろうか、積極的に活動し、いつくしみと寛容な心でみんなに手を差し伸べ、よりよく生きるために(現世)の生活を顧(かえり)みず、イスラームの条件にかなった方法で行動すること、そして最後の一歩を他の人々に譲ることが(まさにこの低迷な時代に)必要であろう。私の担った役割を必ず私が(自分)完了させるという考えは、(チームワークの精神に反し)チームに害を与える捉え方である。
多くの場合、規定では、最前列のイマーム ( 集団礼拝をする時、先導する方 ) のすぐ後ろ並ぶことが最も報奨が高く与えられると理解されて、伝えられている。私はこの事についても少し違った角度で捉えている。ここで、真に意図することはモスクへより早く入るということである。礼拝前にモスクへやってくる者はそれなりの報奨がある。後からやってきた者が最前列に並ぶ事やイマームのすぐ後ろに並び礼拝する事が重要なことではないのである。もし彼らが最前列に並び礼拝したとしても、あなたの最前列での礼拝の報奨をアッラーが取り上げてしまう事はない。なぜなら、あなたがより早くモスクへはいったからである。さよう、報奨は我執(欲張る事)によって失われる事がありえる。個人的に多くの人々がこの状況に置かれているように思える。一般化して、このようにのべるのは正当なことではない。だが、私の周りで多く見うけられるので、申し上げる必要があると考えた次第である。
さあ、繰り返そう。心をもっぱらアッラーに向け(イフラースで)、心からアッラーのご承諾 ( 受け入れ ) を求めよう。思考(や六感)のすべてを集中させ、アッラーの御言葉に傾注しよう。我執 ( 欲 ) が湧き起こってきたなら、それを滅することにつとめよう。だが、「イスタンブールの勝利者は自分(私)だ、ゴールのテープを切るのは自分だ。」と語る事がないように。なぜならこれは有害な考え方であるから。
チームワークの精神について私が語ってきた言葉は主観的だと捉えることもできる。あなた方はこれらをクルアーンとスンナ ( 注1 ) の規範に従って検討し、もしふさわしいと思われるならそれに適して行動すればよろしいし、または、客観的にそれらを調べ、評価してから、それに従ってふるまうのもよいだろう。
注1 スンナ:ムハンマド ( 彼の上に平安あれ ) の範例と慣行
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