徳
永遠にまで続いていくであろうあなたの魂のため、常に新たな名誉や地位を求めなさい。あなたが得た尊厳を失わないために、いつでも注意深くありなさい。
一つの社会において、醜悪なものや醜悪さの台頭、発展に対し注意が払われていないのなら、素晴らしいものや美が山賊のように追われているなら、真実や徳への熱望が非難され抑圧されているなら、非道徳がどこにでも浸透していけるなら、その国で徳のために生きようとする人たちにとっては、地の下の方が地の上よりもよいものとなろう。
徳とは、人間たちが評価し、動物たちが好まないようなもの、恥とは、人間たちが恐れおののいて遠ざかり、動物たちが気にも留めずに行なうような振る舞いと言われている。まさにそのとおりである。
宗教、民族、故郷、誉れ、そして国家のような崇高な概念に対し抱かれる強い思慕の情は、誠実な魂によるものである。それらは、この崇高な真実を侵害せず、また侵害させることもない。必要とあれば躊躇なく、喜んでその魂を犠牲とする。このような魂の崇高さを手にしていない不運な人々が、これを愚かと呼ぶのである。
徳は、いくつかの状態や条件下にあっては、損害をもたらすことがあるが、それでもはやり徳である。それをつまらないものだと見なし後悔することは、どの場合でも不正である。徳によって害がもたらされたのなら、やはり徳によってそれを退けようと努めるべきである。
徳は、正当に与えられた敬意に対してすら重要性を示さないことであり、うぬぼれとはふさわしくない状況においてすら、敬意を期待する魂の状態である。徳が話す時はうぬぼれは利己主義の懐に隠れつつ、苦しみながらそれを聞く。
過去の偉大な人々を善と共に思い起こすことは、彼らが持つ権利でもあり、私たちにとっても尊さを理解していることのしるしとなる。なぜなら彼らは、民族に誉れを獲得させる根のようであるからだ。その根を腐らせようとすることは、民族をその栄誉ある過去に対し怖がらせ、それから遠ざけようとすることなのだ。
正しい人々を評価し、敬意を込めて思い起こす人たちは、いつの日か必ず、敬意を込めて思い起こされるようになるだろう。評価されている人々への批判や中傷によって有名になろうとする人たちは、この上なく悪い評価を得るであろう。
自らを知ることは先見の明であるが、自らを見ることは、何も見ないことである。自らを知る者は、神にも人々にも接近することができる。自らを見るものは、エゴイズム以外の全てから遠ざかることになる。
過去の過ちを評価し、それを生かし、そして過去の人たちを一定の基準で許し、そのことに時間を費やしすぎないことは、賢明な振る舞いである。不必要に過去や過去にあった事柄を中傷することは、賢明ではない行為である。
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