自然界の法則、様々な要因はなぜ創造されたのか

来世、力の領域においては、アッラーが直接、その意志を実行される。原因が全くない状態で、あらゆることが即座に起こる。しかし、ここ知恵の領域においては、英知のあるお方、というアッラーの御名は、アッラーの力が、「原因」や「法則」という覆いの後ろで作用することを必要とする。その理由のうちの一部は、以下のとおりである。

1.法則や要因は、それぞれが媒介覆いとなり、創造主からもたらされる指示や通達はこれらの裏で実行される

アッラーは現象界を創造された際、自然界の切り離すことのできない固有の特性として、自然の法則と様々な要因をともに創造された。創造の最初に下された「あれ」という命令とともに存在を始めたものは、同時にこの特質によっても整えられて、存在を始めるのである。「また凡ての事を、成就する基になるものを授けた」(洞窟章18/84)の章句も、この真実を解き明かすものである。

ただ、すべてのこの要因や法則は、アッラーの偉大さの覆いであり、それらの背後で真実の業を営まれておられるお方、そして存在とそれをもたらす要因を創造されたお方は、アッラーなのである。法則や要因は、アッラーの力からもたらされる真の支配とその影響を宣言する義務を負い、アッラーの偉大さを見かけで判断しようとする知性から保護する「美しい覆い」というものである。

人間たちの中で地位を持っている者でさえ、ある種の偉大さや名誉があるのであり、だからこそ、媒介を通したり、覆いの後ろで仕事をしていたりする。それぞれの部署で行われている作業に参加したり、どこでも姿を見せたりはしない。偉大さと名誉故に、他人に仕事をさせ、他人を使っているのである。例えば、一国の首相たる者は、役所の係員のように用紙を手に市場を監査したりはしない。彼の地位はそれをよしとしないのである。将官は、大部屋の掃除や調理器具などの運搬、武器の手入れといった仕事を兵士たちにさせる。彼自身はその階級、地位故に、そういった仕事は行なわないいのである。―比喩が謝りでないことを願うが―ちょうどこのように、全ての存在の唯一の持ち主で支配者であられるアッラーも、この世で起こるあらゆる出来事を法則や要因の裏で管理されておられるのだ。なぜなら崇高さと偉大さがそれを必要とするのである。アッラーが、崇高さと偉大さの覆いとされたものの、真の意味での効力は語るに及ばないことである。

つまり、法則や要因は、支配者の事務室のようなものなのだ。上部からもたらされる通達や指示の実践は、その部屋で媒介や要因と結び付けられるのである。真の意味で全ての業を営んでおられ、それを他にも行わせておられるのは、アッラーであられる。

2.自然の法則や要因は、不当な文句に対象となるように創造された

物質や出来事には二つの側面がある。それは外面と内面である。ちょうど鏡のように。一方は透明で、曇りもなく、きれいで文句の付け所がない。もう一方は汚れていて醜く、不具合ばかりである。このように、物質や出来事における内面には、法則や要因は存在せず、汚れや醜さなどもそこにはない。そこでは全てが透き通り、輝いていて、非常にきれいである。命、光、恵み、これらはこの側面の例である。外面には、アッラーの偉大さや崇高さ、完全さや美しさに反する、視覚や聴覚や嗅覚、さらには想像や思考にとっても好ましくない状態が存在する。法則や要因は、このような状況で、覆いになり得るようにと創造されたのである。

アッラーは、行われるべきことをこの要因と覆いの向こうで、続けられておられるのだ。不当な文句が直接アッラーに対して行われないようにするという英知もまた、法則や要因の創造を要するものとなる。

なぜなら迂闊で無知な人たちは、物質や出来事に存在する繊細で深い神意を、つまり秘められた美を読み取ることができない故に、しばしばアッラーに対して反抗し、不平を言うのである。しかしこういった不平は、不平の原因よりもなお、大きな災いである。そう、しばしば不平の原因となる災いは、それ自体よりも更に大きな災いをもたらすことになるのである。慈悲と慈愛の主アッラーは、限りない慈しみの業績として、その業を要因や覆いで包み込むことによって、しもべたちが真の災いから救われることを望まれ、彼らに正当な要因と覆いを与えられたのだ。

心の果実、つまりわが子を失った傷心の母の嘆きに秘められた不平は、病気や災難といった覆いで包まれる。それによって母親は、わが子を失うこと以上にひどい災難である、アッラーへの不遜さというものから救われるのである。しもべたちに対してこれほど深い慈しみを持って振る舞われるアッラーは、いかに偉大であられることか。そして、偉大という言葉はこのお方の真の偉大さに対してはいかにちっぽけなものであることか...。

3.自然の法則や要因は、限りない神の芸術を示すために創造された

芸術家の偉大さは、その作品の価値によって評価される。元気にさえずる鳥たち、様々な色の花、最も小さな被造物においてさえ、驚くほどの芸術的な繊細さが見られる。これら全てに対してもアッラーは、自然という言葉で、その御名と特質を語らせておられる。この御名や特質の顕示は、要因という名のもとに示され、知能を持つ被造物たちにお見せになっておられるのだ。御自身も、彼らの驚きや感心する様子を、ご覧になっているのである。

完全さや美の持ち主は皆、自らの完全さや美を見ること、また見せることを望む。この世界で、欠点だらけの人間の芸術家にすら見られるこの思いは、展示会、展覧会、といった名のもとに顕される。しかし実際、人間における完全さや美などというものは、絶対的な完全さや美の持ち主を理解する上での一つの指標にすぎず、しかも最も下部に位置するものである。

とはいえ、指標に過ぎないものであったとしても、絶対的な美と完全さの持ち主であられる神がご自身の美と完全さを見てそれを意識のあるほかのものに示すというお望みによって、この自然界を展覧会場のような形にされたという崇高なご意志を理解することは可能なのである。

ここでの把握や理解こそが、人々に、そのお方の神聖さを感じさせ、あらゆる欠点からかけ離れたお方であることを認識させる。アッラーには一切の欠点もないことを讃えること、崇高な神聖さを感じることは、宗教的実践やしもべであるという認識によるものである。こういったしもべとしてのあり方は、人間、さらには全ての存在の、創造の意義である。要因という名の階段は、我々をこの意義へと続く正しい道に導き、到達点へと到らせる上でも重要なものなのだ。

4.自然の法則、要因の各段階で異なる御名が示される

自然界の法則や要因の本質は段階的である。これが、神聖な芸術の偉大さを示す、この上なく神秘的な論拠の一つである。なぜなら、それぞれの段階やそれぞれの局面で、異なる御名の顕現を示すことと、完全体に存在する芸術的な素晴らしさを、有機体の異なる段階で構成をもたらす全ての部分にも存在させること、これらはただ、神の芸術のみに見られる特有のそしてその偉大な芸術家に帰されるべき特質なのだ。

このような特質を他の芸術作品で見い出すこと、またその特質を他の作品で示そうとすることは可能ではない。

5.この世は英知の場であるので、英知を要する要因や法則が存在する

この世は英知の場であり、あの世は力の場である。あの世では力がより支配的であり、この世では英知の方が支配力を持つ。だからあの世では法則や要因はサイクルの外に追いやられる。しかしこの世では、英知の要するところである要因や法則が存在するのだ。

アッラーには、ハールク(無から創造されるお方)、ラッザーク(糧を与えられるお方)、シャーフィー(治癒されるお方)、ムカッディル(評価されるお方)、ムサッヴィル(全てに美しい形を与えられるお方)といったような御名と同様、ハキーム(全てを正しくご存知であるお方)という御名もおありである。このお方はこの神聖な御名とともに、英知によって業を営まれ、英知によって創造され、英知によって要因や法則をその実践の媒介とされる。知恵によって、要因と結果の間に設けられたつながりの周囲に、存在という名の刺繍を施されるのだ。

あの世では、力が支配的であるためアッラーは力によって振る舞われる。はかなく一時的なものであるこの世を、その内部にある要因や法則と共に破壊され、全く異なる世界を創造されるのだ。

その世界では、この世で価値を置かれていた基準は全て無に帰され、被造物は異なる形と特質で、アッラーの力の作業場へと送られるのだ。力が支配するその永遠の世界では、天国の果実を食べるために土を耕したり、種をまいたりする必要はない。天国の服も、仕立て屋の針や糸を必要としない。そこでは古くなることも、衰退することも、年をとることも、死ぬこともない。だからこれらの結果をもたらす要因も存在しない。この世は奉仕の場であり、あの世は報酬の場である。だから、あの世で恵みを受けるためにはこの世で努力し、要因を確保すべきなのだ。しかしあの世では、この要因でさえ他の様々な要因と共に、結果と結びついた上で姿を消す。そう、あの世では努力ということも必要ないのである。

6.自然の法則や要因は、この世に義務を負って遣わされる者の英知と試練のために創造された

要因や法則は、それぞれが一つずつの覆いである。目に見えないものを信じる者たちと信じない者を区別するため、我々の目と、見えざる世界との間に引かれた覆いである。これらは、信者と不信心者の区別を助ける。見えざる世界を信じることは信者の最大の特徴である。

ここでは、次の点にも注意する必要がある。

アッラーは、お望みになりさえすれば、こういった法則は創造されなくとも構われなかった。この世界を、我々の目にも見える天使の背に乗せられ、我々も引力という法則について話し合うこともなかったであろう。あるいは、子供ができるための条件として一晩の祈りのみを定められ、我々も戸口に送り届けられた子供を見つけることができたかもしれない。アッラーがお望みになられれば、天の星を文字のように利用され、誰でも読める形でお名前を記され、皆に知らしめることも可能であった。あるいはアッラーは、人々とそれぞれ個別に語られ、人々を最初からそういう能力と共に創造されることも可能であった。これらは皆、そしてこれ以上のことも皆、起こり得たことなのだ。しかしその場合、真の意図から外れることになってしまったであろう。なぜなら人が創造された目的は、試練を受けることにあるからである。もし、先に述べたようなことが実現していたとしたら、知恵というものに関する英知の意味も、しもべであると認めることの意味も、何も残らない。これは同時に人の意志を奪い、その意志に関わらず信仰が義務付けられているということを意味し、責任を伴う形での同意が不可能であっただろう。そう、もしそのようなことになっておれば、ダイヤモンドの魂を持つアブー・バクルと、炭の魂を持つアブー・ジャハル[i]を区別することもできなかっただろう。試練という英知がない以上、天使を超越するような人の地位は不変のものとされ、人間の創造の意味さえなくなっていただろう。なぜなら人が創造される以前から位階は不変のものである天使たちが存在していたからである[ii]

7.自然の法則や要因は、思想の発達や科学・学問の構築のため創造された

人類は、その存在の初めから、興味や探求心をアッラーが創造された物質について向けてきた。その結果、謎に包まれていた様々なものや現象を解明してきたのである。文明や技術も、そういった努力の結果、今日の段階に達したのである。しかし、もし初めから何もかもが明らかになっていれば、興味や探究心が起こる余地もなく、研究なども行われることがなかっただろう。人々は、最初から全てが明らかになっている状態で、驚いたり感心したりすることなくこの世に来て、そのまま去っていったことだろう。生まれたときから既に死を待つことしかやることがない情けない状態が、私たち皆の運命と定められたことであろう。

8.自然の法則や要因は、習慣や慣れを生み出し、生活を心地よいものにする

過不足のない習慣や慣れは、暮らしを心地よいものにするために欠かせないものである。それがないと、生活は困難なものになる。なぜなら、明日がどんな日になるか全く検討もつけられないのであれば、その人の人生は、計画をもって秩序づけられたりすることは不可能となるからである。驚異に満ちた環境で、人生のすべての瞬間において新たな驚異と向き合っていく戸惑い、そしてその連続は好ましいものではない。たとえば人のこの世への現れ方が変化するものであったとしたら、今日のあり方と昨日や明日のあり方がまったくつながりのないものであったとしたら、そしてもし、死のあり方さえそのようであったとしたら、どういった状態が出現していたであろうか。

そう、もしこの世界に要因や自然の法則といったものが作用していなかったとしたら、均衡や秩序といった生を生とするべき不動の価値といったものもなくなっていただろう。それらのない生は、生とはいえないのである。習慣、慣用といったものの行き過ぎは熟考を妨げ、またその不足は生を苦しいものとすることである。信者は、中道を、つまり熟考しつつ生きることを選択するべきである。


[i] 訳者注 アブー・バクルは預言者ムハンマドの古くからの友人でありムハンマドの召命をいち早く信じ、二番目か三番目の信者となり、預言者の後にカリーフになった。一方、アブー・ジャハルはクライシュ族の有力者の一人であった。初期ムスリムを厳しく迫害したアブー・ジャハルは、バドルの戦いでマッカの隊長になり、この戦いで死んだ。

[ii]聖クルアーン、「またあなたの主が(先に)天使たちに向かって、『本当にわれは、地上に代理者を置くであろう』と仰せられた時を思い起せ。かれらは申し上げた。『あなたは地上で悪を行ない、血を流す者を置かれるのですか。わたしたちは、あなたを讃えて唱念し、またあなたの神聖を譲美していますのに』。かれは仰せられた。『本当にわれはあなたがたが知らないことを知っている』」(雌牛章2/30)

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