忠実なしもべたちへ与えられる驚き

聖ハディースでアッラーは次のようにおっしゃられている。

「私が、忠実な(サーリフ)しもべたちにあの世で準備した物は、目で見たこともなく、耳で聞いたこともなく、誰も想像したこともない物である」[1]

これは聖ハディースである。その意味がアッラーからのもので、言葉は預言者ムハンマドのものであるハディースを聖なハディース(ハディース・クドスィー、脚注13を参照)という。

このハディースでは予想外の出来事について述べられている。人はそこで予期しなかったものと、予期せぬ瞬間に対面することとなる。聖クルアーンでも天国での恵みについては説明されているが、ただこれはそれらの名前、比喩、ヒントのようなものである。この世にいる間に天国の真実を理解することは不可能なのである。

イブン・アッバースは「彼らには、それほど似たものが授けられる」(雌牛章2/25)という節の解釈として「天国にはあなた方の知っている恵みの、名前のみがある」と述べている[2]。それを味わった時、その味から「これは何々に似ている」ということは可能であるが、決して同じ物ではないのである。天国の恵みは、天国それ自体と同様、その永遠性、無限性にふさわしい形で創造されているからである。この世界にあるスイカやメロン、りんごや梨をそこで探すのは無邪気過ぎることである。

天国は驚きの世界である。目を回すような、目が眩むような、我を忘れさせ、何をしたらいいかわからなくなってしまうような恵みが並べられている市場のようなものである。さらには、何千年もの天国の暮らしは、ほんの一瞬アッラーの美を拝見することと同等にならない。これも天国の驚きの一つである。つまり、信者たちは天国に入って、そこで神と出合うことになるであろう。アッラーは時間と距離を超越されたお方であり、天国の時間と距離であってもそれは変わらない。このように、忠実な(サーリフ)しもべにはアッラーの美を拝見するという驚きまでもが準備されているのである。

〔サーリフ〕は、不足なくその仕事を行なう者という意味があり、〔サーリハット〕とは不足なく行なわれた仕事に対して言われる。なされた仕事がサーリハットかどうかはただアッラーの評価基準と照らし合わされて決まる。つまり、礼拝はいかに行なわれるべきか、断食はいかになされるべきか、喜捨はどうされるべきか、聖戦はいかになされるか、内面世界はどう調節されるべきか、体はどうされるべきか、魂はどうあるべきか、意志はいかに力を増すべきか、感覚や感情はどうあるべきか、これら全ての「いかに、どう」は、アッラーの評価基準がどのようであれそれによって決まるのであり、それによって価値が与えられるのである。そのため、人がアッラーの教えに自分を合わせること、調節すること、神のお気に召す形であろうと努めることが、サーリハットの第一歩と言える。

例えば、サズ(三味線に似ているトルコの楽器)奏者がサズを演奏する前にまずサズの調整をするのと同じに、あなたが、アッラーのお気に召すような、承認を得られるような言動をしたいと思うなら、必ずまず自分自身を聖クルアーンに合わせて調節し、管理しなければならない。そうすればあなたの声はあの世でも認められるだろう。そうでなければ、あなたが省みられることはない。アッラーは全聴にして全視であられる。全てを見られ、全てを聞かれる。しかし、あなたの声がふさわしくなければ、それを聞かれない。だからあなたも自分の声を聞いていただくことができなくなるであろう。

サーリハットには別の意味もあり、すなわち、宗教行為が特にアッラーの心に留まる事を考えながら、努力して行なわれるという意味である。人は、全ての善行の機会においてそれを注意深く実現するべきである。なぜなら、どの行為が彼の救いとなるかわからないからである。預言者が次のように言われているのも、そのためである。

「アッラーを畏れなさい。どんなものでも宗教上よいとされているものを見くびってはいけない」[3]

先に取り上げたハディースで「私の忠実なしもべたちに」という表現が使われている。すなわちサーリハットは、彼らをアッラーに近づけ、アッラーから愛される者としたのである。別の聖ハディースでは、アッラーによって愛される者の状態が次のように説明されている。

「もはや私は彼(信者)を愛したら、私は彼の聞く耳に、見る目に、支える手に、歩く足になろう」[4]

しもべはサーリハットによってアッラーへ近づくことができ、完全にアッラーの色に染まるのである。もはや彼は死体洗いの手の中の死体のような状態になる。彼を左右に動かすのは常にアッラーなのである。これは何と甘美な力であろうか。アッラーは彼を正しい方角に向けさせられる。このような人が、神のしもべとしてアッラーから顔を背けることはあり得ないに違いない。もはや「私のしもべたち」と言われる段階に達し、アッラーに近い者たちに加わったのであるから。このような人は「アッラーよ、私を摑んでいてください。私はあなた無しではいられません」と言うであろう。

そのような人は、よいことはほぼ全て実行し、また全ての行ったことにおいて、救われる手段を求める。どの行為が彼を救うのかはわからないから、機会ある限りよい行いを逃さず行なう。彼のこれらの行いは小包のようにあの世に送られ、彼が天国に入った時、その小包は一つ一つ開かれ、見たことも聞いたこともない驚きを彼に味あわせるのである。

時には一匹の犬に水を与えたことが天国へ行くきっかけとなり得るし[5]、時には一匹の猫に水を与えなかったことが地獄へ行く理由となり得るという[6]真実を考え合わせて言うが、天国も、天国で与えられる物も、まさに驚きなのである(参照96ページ)。

さらに、人はその目で見て、耳で聞いて、想像できる事項のみを知ることができる。しかし、人が限りある存在であるのと同様、この感覚もまた限りあるものなのである。だから、人は自分の感覚でもって、限りのあるもののみ把握できる。限りのない世界における恵みをこの感覚で把握するのは不可能である。

「意味を考えることはこの小さな頭には必要もないことだ

このてんびんはこれほどの重さには耐えられない」(ズィヤー・パシャ)

別の見方もある。すなわち、アッラーは行なわれた善行に対して時には十、時には百、時には七百、時には十万、時には百万、時にはアッラー御自身のみにわかる数の報酬を与えられる。しもべは誰一人として、自分にどれほどの見返りが与えられるのかを知ることはできない。あの世において、行為の見返りが考えていた以上の驚きとして目の前に与えられ、驚く。このようにして、しもべが想像もしなかったことが一つ一つ実現するのである。

これほど深い真実を数語の言葉で説明されるアッラーの使徒は、我々の思考の限界に迫るこのような言葉を考えることもなく即座に、即興で語られたのである。この言葉だけでも、このお方が知性を超越した、預言者特有の知性の持ち主であられる事を示すのに十分である。ただ我々も、このお方について語ることが与える秘められた精神的な楽しみを断念することはできないので、もう少し、預言者ムハンマドの言葉を説明していきたいと思う。

 


[1] Bukhari, Tawhid 35
[2] Ibn Kathir, Tafsir 1/91
[3] Munavi, Feyzu'l-Kadir, 1/121; Hindi, Kanz al-'Ummal, 6/576
[4] Bukhari, Riqaq 38
[5] Bukhari, al-Anbiya' 54; Muslim, Salam 153
[6] Bukhari, Musaqat 9; Musnad 2/507

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