信者は責任を持つ人である

「あなた方は皆羊飼い(ラーイ)であり、皆、手にしているものに対して責任を負う。国家の長も羊飼いのようであり、彼の下にあるものに対して責任を負う。それぞれ個人も、各々が扶養する者に対しての責任を負い、管理しているものにたいしての責任者である。妻は夫の家と、受け持っているものに対して責任を持つ。召使いは主人の財産への責任者であり、関わっているものに対する責任を負う。あなた方一人一人が羊飼いであり、管理するものへの責任を持つのである」[1]

〔ラーイ〕とは、何かの世話をし、守り、保護するものという意味である。羊飼いに対してラーイと言われているのは、羊飼いが彼に託された動物たちを安全な、最も適した場所で放牧し、狼や猛禽類から守り、何かの不都合に曝された時は熱心にそれに取り組み、その任務を遂行する上で、常に卑しい感情から距離をおき、羊の群れに対して慈愛の感情を抱き、群れが困難な状況にある時は共に苦しみ、彼らが喜んでいる時は共に喜ぶという重要な特性からである。

そして、ある意味で、国家の長とその民の間にもこのような関係が当てはまるのである。国家の長、そしてそれぞれの段階に応じた部署にあるその代理人は、その支配下にある者の世話をし、彼らの苦しみや喜びを共に分かち合い、彼らの幸せな将来を用意し、彼らの苦しみに立ち向かうことに責任を負うのである。

家の長と家族のメンバーとの間にも同じ関係が存在する。一家の長は、食べる物、着る物、それから彼らを適切な場所に住まわせるといったことにおいて、第一の責任者である。それと同時に、教育、しつけ、現世と来世における幸福を確立してやること、などといった面でも責任を負う。

同じことが、女性の夫に対する関係にも言える。妻は家の仕事を注意深く行い、夫の財産や名誉や誇りを守るということにおいて、群れに責任を負う羊飼いのようである。

召使いは主人の財産や富、子供は両親の資産、名誉と信用を守るという状況において、羊飼いが羊の面倒を見ることとつながりを持つ。言わば、この教えの観点から見れば、羊飼いのような責任を伴わない任務は何もないのである。さらには、何かを管理する立場にはない者でも、やはり責任は持つ。そう、人は皆自らの欲望や知恵、感情、それぞれの器官を、託されたものとして守り、保護する責任があるのである。

多くのシステムや教えが存在する中、イスラームは唯一、国家の長から家の召使いに到るまで、それぞれの負う責任を、しかもまだ民主主義などの生まれていない時代、細部に渡って明らかにし、宣言した体制である。この件においてこれに対抗するような制度を見つけることは不可能である。

イスラームの預言者は「国家の長は責任を負う」と語られ、その責任と、責任の範囲、義務を明らかにされている。女性と男性の責任を再確認し、別々の場面でそれぞれに定められた責任を負わされている。父の子供に対する、子の父に対する責任についても触れられ、それぞれの権利と義務についても言及されている。そして、この点における世界の進歩というものにも重きを置くならば、非常に早い時期と言えるこの時代に、召使い、労働者たちの権利と義務についても言及され、人間の歴史における社会化の波よりもずっと以前に、一つの社会問題の解決法を提案されているのである。

国家の長とそれに従う者との呼応する権利(その多くは王の法で宣言されている)から、子や両親の権利、夫婦、労働者と雇い主の権利に到るまで、イスラーム法学や教育、社会や法といった、何冊もの本で多くの量を要するいくつものテーマを、ほんの少しの言葉で語られた預言者のお言葉をもう一つあなた方に示すことができたのである。

 


[1] Bukhari, Jumu'ah 11

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