絶えず思い出さなければならないこと

「アッラーは彼らの罪(悪行)を幸に取り替える。」「われらは、災厄に替えて幸運を授け・・・ 7_95 .」と、おっしゃっている。これはつみある人々にとっては、正に善い知らせである。しかしこの節により適するためには、僕の行うべきことがある。1つは、もし悪行が人との関連のもとに起こったのであれば、つまり、僕の権利(人権)についてであるなら、必ず相手に直接、許しを求め、赦してもらうことが必要である。 2 つ目は、犯した悪行を一生涯忘れないこと、と同時に、その痛みを常に生き生きと新鮮な感覚として感じることである。このことは他の場所でも説明申し上げた。悪行は全く善くないことだが、ただ、一点において善いとみなすことができる。それは僕が罪(悪行)を犯した後で、一生涯悔やみつづけ、悔悟し許しを請おうとする状態においてである。たとえば、ある僕は、アッラーが禁止なさったことや者を注視したが、何年過ぎてもそのことを思い出す度に、体が二つ折りになるほど低姿勢で(謙虚に)、恵みの扉に向かおうとした。そのような僕にとって、その罪(悪行)はすばらしい幸を生み出す基となる。

以上 2 点を行うことができれば、もしかしたら、アッラーはその僕を来世ではずかしめないだろう。しかし、罪(悪行)を犯し、忘れ去ってしまうとしたら、同様の結果を証言することはたいへ困難である。さて、本来忘れさられるべきことは、善行と善きもの(美しきもの)である。思うに、今日多くのムスリムたちはこの 2 つのことを混在させている。忘れるべきことを忘れず、忘れるべきでないことを忘れている。

これについて、さらなる深意は次の通りである。人間なら誰でも我々の主との関係において、不足部分や犯してしまった悪行を所持する。アッラーがそれらをお許しくださることを我々は懇願する。しかしながら、同様な願いを他の人々の罪や過失についても感じる必要はないのだろうか?なぜ、我々はその願いを明らかにしないのだろう?アッラーは我々すべてのアッラーであるのに。彼は慈悲に厚きお方、彼は慈悲あまねくお方、彼は寛大なるお方である。「彼の慈悲は万物を包み給う。」と彼は仰せられる。アッラーの称えられるべき習性が、ぬかるみの中でもがいている人々に手を差し伸べ、そこから連れ出し、洗い、上にバラの香水をかけることであるならば、彼らをぬかるみの中で見る権利など我々にはない。(つみある人々の悪行を罪である私達がいうことはできない。)アッラーが望めば、彼をお許しになられるのだから。そのために、上記に説明を試みた「罪(悪行)を忘るるなかれ。」ということは、すべての人がわが身にひきつけ自分自身の問題として、考え、行動しなければならないことなのである。 50 年前に行ってしまったことでも、そのことを正に今してしまったかのように全感覚を働かせて、感じるべきである。この観点から、他人について「私はだれそれがいつだったかあんなことをしたのを知っていますが、このことへの恥じらいを彼から感じることはありません。」という権利は誰にもない。

あなたどうして知っているのか?(いや、あなたにはわからない)それが、彼の中で抑圧となり、彼が心の中で犯した罪に悩み苦しんでいることを・・・

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