さあ、礼拝からはじめよう

人とアッラーとのつながりにおいて基本となるものは、内面的なものであり、本質の部分であり、魂である。しかしそれらを担うのは言葉であり、形であり、型である。だから必ず、その言葉や、型に注意を払わなければならない。本質的な部分である意味や、意義を、その型が携えるべきである。だから、形や型に意味がないということはできない。外面的意義はそれらに構築されるのである。

礼拝の内側に礼拝があり、断食の内側にも断食がある。だからこそ、「信者たちは救われた。救われた信者というのは、」に続けて、「礼拝において常に畏怖のうちにある」とされているのである。「かれらは礼拝する」ではない。ここでは忍耐と継続性を示す型が使われている。つまり、「いつであれ、礼拝において畏れを感じ、謙虚であろうとする者が、救われる者となる」とされているのだ。 一人の人について、その礼拝を見るだけで、彼が畏怖のうちにいようとする者であるかどうか、明らかにすることはできない。これは、人の良心とアッラーとの間の問題である。私たちは、よい方向で考えるよう努めている。

しかし、一部の人たちは礼拝において、断食においてあまりに不注意であり、また貞節という点でも、街中であまりにもひどい振る舞いをしているのだ。人がそれをどれほど肯定的に見ようとしたとしても、目にしてしまった振る舞いについての肯定的な考えをイスラームの範疇に収めることができないのである。

例えば、誰かが、タクビール(「アッラーフアクバル」と唱えること)をすぐに始めてしまい、あなたがまだファーティハ章を半分も唱えないうちに、ルクー(立礼)の姿勢に入っている。どれほど自らに無理を強いたとしても、その人について、彼は礼拝をしたのだということはできない。

例えば、ルクーにおいて、正しいあり方で、正確な発音で、一部の法学者によれば一回、「スブハーナラッビルアズィーム」と唱えなければならない。あまりにも早く唱えているようではその意味はない。一部の法学者によれば、それを少なくとも三回、唱えなければならない。だから、ルクーとサジダ(平伏叩頭)において少なくとも三回、ゆっくりと、きちんと発音しつつこれを唱えなければならない。私たちがこれより少なく唱えているのであれば、他の人が私たちについて肯定的に考えることを妨げることになる。

このようにして、いくつかの型は、私たちがそれに担わせようと努めている意味や意義を、持たないものとなる。それによって、私たちについてよく見なそうとしている人たちは、妄想や幻想を抱いただけとなってしまう。

多くの人たちが、さっさと詠んでしまっているファーティハ章は、クルアーンではない。なぜならクルアーンは、そういう風に掲示されたのではないからである。そうやって大急ぎで詠まれてしまうファーティハ章によって行われた礼拝は、礼拝ではない。一息で、息が切れる前に節も終わらせようとあせりながら、息が切れたところで急いで、必死で息継ぎして詠まれるクルアーンによっては、礼拝でクルアーンの節を詠むというファルドを果たしたことにはならない。言葉は、その意味の外枠であるが、その外枠はそこでの意味にふさわしいものでなければならない。短時間のうちに、普通ではできないほどの物事を成し遂げるという事象はまた別問題である。誰かが私に「しかるべき形で節を詠みながらも、5分間で40ラカート、もしくは90ラカート礼拝した」といったことがある。神の特性という観点から、これはいつでも起こるものではない。一度その機会が与えられた者であっても、それを鼻にかけて語っていれば、二度とその機会は与えられない。

礼拝における畏怖

礼拝について、「内面において、合法な形での礼拝」という表現がよく使われる。これは、畏怖や安らぎとつながりのあることである。畏怖は、礼拝の意義に関わる問題を引き出すものである。

礼拝における畏怖に関して私が何度も述べたとしても、どうかそれを多すぎるとは見なさないでほしい。信仰と礼拝は兄弟である。信仰が先に生まれた、というだけなのだ。我々の師は、礼拝が五回に割り当てられていることについて語った際、その意味についても解説している。ムヒイディン・イブン・アラビーは、礼拝に意味についての解説を示している。シャー・ヴェリユッラー・デフレビーは、礼拝に関するいくつかのテーマを語り、その重要性に注意を引いている。

だから、私は一部の友人にお願いしたのだ。誰か数人でいいからまともに礼拝してくれれば、規範となってくれれば。そうしなければ、私たちと共にある人々においてすら、真の意味での礼拝はされていないのだ。五回、伏せたり起き上がったりはしているが、礼拝はされていない。

さらに「礼拝する者の状態を見よ」というところで語られているのは、単に誤りという問題ではない。私たちには、礼拝に関する多くの不足点がある。例えば、「礼拝に立つ際、だらだらと起き上がる者」、これはその一つである。ハディースにおいて、人のそうした礼拝は、人としての行動から逸脱したものとされている。礼拝は、人間の振る舞いである。しかし適切なラインを守ることができない場合は、そこで行われる振る舞いは動物のそれに似せられるものとなるのだ。

例として、イマームより先にルクーする人に対して、「ルクーから起き上がるとき、アッラーがあなたの姿勢をロバに似せられることを望むのですが」とおっしゃられている。つまり、イマームより先にルクーを行うことは、しもべとしてのあり方を逸脱してしまうことを意味するのだ。

「誰であろうと、サジダするときには、おんどりがえさをついばむような形でそれを行ってはいけない。」といわれている。そう、それは動物の振る舞いである。額を地にぶつけて起こすというのは動物の振る舞いである。アッラーは、アッラーに対して行われるしもべとしての行為において、私たちを人間的な振る舞いへと招かれているのだ。「犬のように手をつかないように」といわれている。座る姿勢からサジダへ、サジダからルクーへ、ルクーからキヤーム(直立姿勢)へと至る動作が、動物の振る舞いに似ないようにと注意を引かれている。アッラーの使

徒 ( 彼の上に平安あれ)は、これらの聖なるお言葉によって、私たちを、人間らしい振る舞いへと招いておられるのである。

そう、畏怖はただ、その型によって明らかにされる。「私は畏怖の中にいる」といったのならば、動物的な型から脱却しなければならない。アッラーの、畏怖に対する褒賞は、その褒賞を携えることのできるもののみが、受け取ることができるのだ。

礼拝が解き明かされること

礼拝の精神、意義というものはすぐに解き明かされるものではないこともありえる。礼拝の精神が解き明かされた人は、最も心地のよいことに没頭しているときでさえ、飛び上がるようにその場を離れて礼拝に立つことを望む。そして礼拝から喜びを得る。常に、ではなかったとしても、何度となく、「この世が決して終わらないものであったら、私もずっとこうして礼拝に立つことができたら。」という。

しかし、これが解き明かされるためには、時として20年、時には30年、場合によっては40年という年月が必要となる。40年間、腹の上で両手を組み、その扉の前に立ち続けるのだ。そうした時にのみ、礼拝があなたに解き明かされるであろう。

礼拝の本質が解き明かされた場合はどうなるのか。その時まであなたは、礼拝の金鉱を求めて、鉱山で土まみれになって動き回った。あなたはそれを続けた。この鉱脈からあの鉱脈へ、と。そしてある日、あなたは自らをその宝の中に見出したのだ。その瞬間までのあなたの努力はすべて金となったのではないだろうか?

聖クルアーンの衣を纏う者章8節では、「それであなたの主の御名を唱念し、精魂を傾けてかれに仕えなさい。」とされている。動詞の活用から、一種の強制であることが示される。そして、最初に、預言者ムハンマド(かれの上に平安あれ)に対してこのような呼びかけがされているのである。

預言者ムハンマド(かれの上に平安あれ)は時と共に、「あなた方が飲み食いや性交渉に対して感じる欲望を、私は礼拝に対して感じる」とおっしゃられるような状態に至られたのである。このように、この点においてあなたが粘り強く、忍耐強くあれば、礼拝の意義のベールがあなたの中で開かれるのを待ち続ければ、やがて、人々が「天国に食卓が整えられたようだ」といったとしても、「礼拝しよう、それからのことだ。礼拝を犠牲にすることはできない」というような状態に至るだろう。天使イズラーイール(死にゆく者の魂を奪う天使)が訪れたとしても、「できれば、時間が来ている礼拝を行いたい、時間が過ぎてしまわないように。それからなら、何をしてもいい」というだろう。

死にかけてさえいようと、礼拝を行おうと努めるような精神的状態に達するだろう。もはや、礼拝と同一となっているのだ。

フバイブが殉教する間際、あらゆる提案を拒否し、ただ礼拝することを望んだということをも、この形で理解することができる。もはや礼拝は、かれの魂に匹敵するものであったのである。

礼拝回廊

礼拝を時間通りに行うことはとても重要である。最初の時間に行うことが最良である。すべての法学者、ハディース学者、クルアーン解釈者たちはこの点に注意を引いている。それと共に、あなた方は、日没や日の出、真上に上る時といった時間になる前に、礼拝に対して一定の時間を割り当てるという生活を基準としてきた。礼拝や、それに関わる崇拝行為を、心の平安のうちに行うために、その時間を守っているのだ。アザーンはアザーンであるべきであり、イカーマはイカーマでなければならない。それらのドゥアーがある。これらすべてが、一歩ずつ集中を高めていくという意味で大きな価値を持つ。

食卓においてさえ、作法がある。まず何を置いて、次に何を置くのか、一種の作法がある。礼拝という天空の食卓を味わうためにも、それらに従うことが必要なのだ。

礼拝は、アッラーのあなたとの間の一種のやり取りである。あなたを、アッラーに対してこれほど早く、これほど近くに至らせるものは礼拝以外にない。まず、一度理論的な形で、あなたの理性がその真の価値に至るべきである。つまり、まだ味わったことはなく、感じたこともないとしても、理論上、「これは、こうである」ということが必要である。

なぜならあなたにおける、求める心を、この認識は呼び起こすであろうからである。求める気持ちの引き金となるもの、スタートさせるものが、これなのである。こういった感情がなければ、あなたは何を目標とするのであろうか。

「アッラーはここで、私に、アッラーのしもべとなる機会を与えられている。私は礼儀正しく、腹の上で手を組み、この命じられた崇拝行為について、アッラーに希望を託そう。アッラーはなんと偉大であられることか。私はなんと些少であることか。アッラーはいかに無限であられ、私は無であることか。そう、それにふさわしい形で私はこれを行おう。これはしもべであることを明らかにする機会であり、私の些少さに泣く機会であり、アッラーの偉大さを明らかにする機会なのだ」 そう、まずはこの感情に満たされなければならないのである。

心の平安には二種類ある。一つ目は、魂の快楽を得ること。人はそれを求めえるが、私の考える限り、それを求めてはいけない。平安とは、あなたの小ささ、無であること、ゼロであることと共に承認されることである。平安の時と、アッラーの御前において自らを示す可能性を手にすることである。そう、この平安に結びつけて、私たちはアッラーの御前を求めているのである。

礼拝を盗むシャイターン

礼拝において左右を見ることを、「シャイターンが礼拝を盗むこと」という。つまり、シャイターンは礼拝を完全に盗むことはできないが、その一部を掠め取っていくのだ。基本的な部分を盗むことはできない。最後の切り札として、視線を盗むのだ。「右を見させることはできるだろうか、左に向けさせることはできるだろうか。」と努力しているのである。

私たちのここでのテーマは、型と意義、である。言葉と型は意義や中身を携えなければならないと語ってきた。

もしあなたが「私は3メートルほどの空間で馬を疾走させた。もう少しで馬が変になるところだった」といったとしたら。なんということを!3メートルの空間で馬は走らない。そう、礼拝をも、そういう形で行っているのだ。そしてあなたは続けていう。「その中に、畏怖や安らぎを無理やり詰め込んだ」 なんということを!この動作の中に畏怖や安らぎは入りきらない。

さあ、一緒に、礼拝から始めよう! 私の師がなんといっているか見てほしい。「インシャーアッラー、あなた方は完全なイフラース(専心)の状態に至ることでしょう。あなた方は私をも、完全なイフラースの状態に至らせるでしょう」

私も彼のようにいう。「インシャーアッラー、あなた方は完全な礼拝を行うでしょう。私にも、完全に礼拝をする者の作法ややり方を教えてくれるでしょう」

そうなった時は、もはや誰が誰に従おうと、救われることになる。さあ、共に、救われるべく決心しよう。

礼拝からは何も盗ませてはいけない。それは一つの信託である。視線からも、座り方からも、立ち上がりからも、あらゆるものから、シャイターンが何も盗まないようにさせなければならない。完全な礼拝と言う信託を、人として、真の礼拝の模範的なあり方にふさわしい形で、果たさなければならない。例えば、私は礼拝を、永遠の旅路において友となる、優雅な顔をした、姿や振る舞い、格好において何の不足もない、あの世的な姿を持つ存在としてみている。シャイターンの盗みを防ぐことができなければ、シャイターンはその耳を打ち、その唇を打つ。一方から腕を奪い去り、他方から足を奪い去る。そういう状態に至らしてしまうのだ。その存在があの世であなた方になんというかわからないのである。必ず何か言うであろう。「アッラーがあなたに望みを与えてくれますように。あなたは私をだめにしたのだ」というか、あるいは「私をひどい状態にしたのだ」というか、必ずや何かを言うであろう。

あちらにおいて苦痛を味わうことのないようにするには、こちらにおいてあなた方が礼拝に苦痛を与えず、泥棒がその手を礼拝に伸ばすことがないよう防ぐことが、必要である。どの部分からも、一切のものは盗まれてはいけないのだ。心、感情、感覚のすべてと共に、アッラーの方に向かわなければならない。

初歩の段階にある人が、これを感じつつ行うのは困難である。「私は感じた」といえばそれは嘘になる。しかしアッラーはいつの日か、その扉を開かれる。歯を食いしばり、最も重要で、最も適した時間をそれに割り当てなさい。自らを強いなさい。インシャーアッラー、いつの日かそれを立派に行うことのできる可能性が生まれるだろう。

おそらく、真実の礼拝に至ることができるようにと毎晩1000ラカートの礼拝をした者もいるだろう。私の師の最初の教え子たちは、懸命に礼拝を行っていた。私は真に礼拝をする人々を見たのだ。何百ラカートもの礼拝を行う人は多かった。数え切れないほどだった。

人々は礼拝することを忘れてしまった。モスクは形のみのものとなった。モスクのじゅうたんは涙を懐かく思う。礼拝用のじゅうたんは清らかな額を懐かしんでいるのだ。

礼拝は、宗教行為の心臓に値するものである。礼拝におけるすべての要素には、それぞれ価値がある。しかしそのうち最も重要な部分は、額を地につける状態、サジダである。「しもべがアッラーに最も近づけるところは、サジダである」といわれている。礼拝はサジダによって、その冠を得るのである。

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