カルブ(心・心臓)-1

エルズルムのイブラヒーム・ハッキ氏の言葉に次のものがあります。
心はアッラーの家である。何であれ、アッラー以外のものが入って来ないようにしなさい。
そうすれば、夜、慈悲深きアッラーが彼の宮殿へと降りて来られるかもしれない。

「カルブ(心・心臓)」には2つの意味があります。 1 つは体の最も重要な部分、左胸にある松かさのような形をしているもの―心臓―を指します。構造や組織という側面において、心臓は体の他のどの部分とも異なっています。心臓には2つの心室と2つの心房があり、すべての動脈と静脈の起点で、また、心臓のみで動き、モーターや吸引ポンプのように働いて血液を動かしているからです。

スーフィズムの用語としては、生物学上の「カルブ」の感情や知覚、感覚、意識、思考、意志などという知性的精神的機能の中心という精神的側面―心―を意味します。これはスーフィーは「人間の真実」と呼び、哲学者は「ものを言う自我」と呼んでいるものです。個々人の本質というものはカルブに見出すことができます。この、存在としての知的精神的側面において、人は知り、認識し、理解することができるようになるのです。精神はこの能力の本質であり内的側面であり、生物学的な意味での精神もしくは魂は、そのための台座であると言えるのです。

アッラーが指されているのは個人のカルブについてであり、責任を負うのも、罰に苦しむのも、報奨を与えられるのも、真実の導きによって高められるのも、逸脱によって堕落させられるのも、栄誉を授けられるのも、屈辱を与えられるのもカルブなのです。またカルブはアッラーの知識が反映される「磨かれた鏡」でもあると言えます。

カルブは知覚するものであると同時に知覚されるものでもあります。カルブは精神の眼のようであるので、信仰する者は自分の魂や、身体、精神を貫くために使います。洞察はカルブの見るという能力、思考はその精神、意志はその内的エネルギーであるとみなされています。

カルブは―精神的知性と呼んでもいいかもしれません―その生物学的な側面と本質的につながっています。このつながりの性質について、哲学者たちやムスリムの賢人たちは何世紀にも渡って議論してきました。そのつながりの性質がどんなものであれ、生物学的な意味でのカルブと精神との間に近いつながりがあることはには疑いの余地がありません。精神はアッラーが与えてくださった機能であり、真の人間らしさの核であり、人間のあらゆる感覚や感情の源であるのです。

聖クルアーンや宗教学、道徳、文学、スーフィズムにおいて、「カルブ」は宗教的な意味での精神を意味します。信仰、アッラーの知識と愛、宗教的歓喜といったものは、このアッラーから授けられた機能を通じて勝ち得る目標です。カルブは精神世界と物質世界という2つの側面を持つ輝く貴重な鉱石なのです。物質的存在や身体としての個人が精神に支配されているならば、精神世界から受け取る精神のほとばしりや贈り物をカルブが体に伝えることが出来、体が平安と静寂の中で呼吸することが出来るようになるのです。

上記のように、アッラーは私たちのカルブを重要に思われます。カルブは信仰する者の精神生活や人間らしさにとって不可欠なたくさんの要素―理性、知識、アッラーの知識、意志、信仰、知恵、アッラーの近くにいること―の拠り所であるので、アッラーは男も女もそれぞれのカルブの質にふさわしく扱われます。もしカルブが生きているのであれば、これらすべての要素と機能は生きています。もしカルブが病にかかっていたら、これらの要素や能力も健康であり続けることは難しくなってしまいます。誠実で敬虔な人預言者ムハンマド(彼の上に平安と祝福あれ)は次のように述べられています。『体には肉でできたある部分がある。もしそれが健康であるならば、体全体が健康である。もしそれが腐敗しているならば、体全体が腐敗しているのである。気をつけなさい!その部分はカルブである。』つまりここでは(精神的な)健康にはカルブが重要であるということが示されているのです。

カルブはもう 1 つの側面・機能を持っています。それは今まで述べてきたものよりも重要なものです。依存し、助けを求めるという性質が人間の本質としてカルブにはあるということです。そして、それによって人間はアッラーを助けてくださる存在、維持してくださる存在として認識することができているということです。これはイブラヒーム・ハッキによって伝えられているハディースにはっきりと表現されています。

アッラーはおっしゃられた。「天も地も私を内に含めることはできない」

彼はカルブ自体によってカルブの中に隠された「宝」として認識されています。

個人の身体が個人の存在の物質的側面なのに対して、個人のカルブはその精神的側面を構成します。そのため、カルブはアッラーの知識について表すもの―直接の、雄弁な、最も明確で、光輝ある、真実の、という性質を持つ―であるのです。それゆえ、カルブはカアバ神殿よりも価値があり栄誉あるものだとみなされ、被造物すべてによってアッラーを知らしめるように表現された、卓越した真実の唯一の象徴だとされています。

また、カルブは人間が健全な精神と身体と同様に健全な理性と思考を保つための砦でもあります。この砦にはすべての人間の感覚と感情が逃げ込み保護を求めることができ、カルブは感染から守られなければなりません。もしカルブが感染してしまったら、回復するのはとても難しいことです。もしカルブが死んでしまったら、再生するのはほとんど不可能でしょう。聖クルアーンでは、私たちは次のように祈るように言われています。 『主よ、わたしたちを導かれた後、わたしたちの心をそらさないでください。(3:7)』 また、預言者ムハンマド(彼の上に平安と祝福あれ)は祈って次のように言われました。「おお、カルブを変えられるお方よ!私たちのカルブをあなたの宗教の上に固く打ち立ててください。カルブを保つことを私たちは絶対的に必要としているのだということを思い出させてください。」

カルブはちょうど、すべての良いことや祝福を信仰する者に届けてくれる橋としての役割を果たすことができるのと同様に、悪魔の誘惑や物欲的な誘惑、邪悪なものが入ってくる手段にもなり得ます。カルブがアッラーに向いていてアッラーによって導かれているときには、体のどんなに遠くの部分にでもどんな暗い部分にでも光を届けることができるような映写機にそれは似ています。しかしもし物欲的なもの―得てしてそれは邪悪なものですが―に支配されてしまったら、それは悪魔の毒の矢の餌食となってしまいます。カルブは本来、信仰や崇拝、完璧な美徳といったものの家であり、宗教的感覚とともに流れる川、アッラーと人類と宇宙の関係から湧き上がってくるエネルギーの放射です。残念なことに、カルブの硬化―感じ信じることができなくなる―、不信仰、うぬぼれ、横柄、権力欲、貪欲、過度の性欲、思慮のなさ、自己中カルブ、地位への執着というような、無数の敵がこの家を壊し、川を堰き止め、放射の道筋を逸らそうとしています。

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